甘楽郡小幡織田藩

▲ 平和の象徴 名勝「楽山園」

織田宗家ゆかりの城下町

前回のトピックスで紹介した「下仁田あじさい園」に隣接する群馬県甘楽町は、織田宗家ゆかりの城下町、この歴史ある町を散策しました。

元和元年(1615年)大坂夏の陣が終焉。織田信長次男の信雄(のぶかつ)が、上野国甘楽郡(こうずけのくにかんらごおり)2万石を拝領し、この地は小幡織田藩(おばたおだはん)として藩政が始まり、8代152年にわたり、織田家が統治したのです。

御殿前通りと武家屋敷の石垣

町にはこの当時の遺構が数多く残されています。
こちらは、「御殿前通り」。武家屋敷の石垣と共に立派です。当時の城下町を思い描くとその格式高さをひしひしと感じます。ここの石垣は、小さめの石を「矢羽積(やばねづみ)」し、それを大きな石で押さえる形になっています。「矢羽積」の石垣を初めて見ました。

食い違い郭

こちらの写真は「食い違い郭(くるわ)」と呼ばれる構造の石垣です。旧陣屋の中心の路に面して造られた鍵型の通路になっているのですが、その理由に「下級武士が上級武士に出合うのを避けるためにここに隠れた」ともいわれているのです、面白いですね。

平和の象徴 名勝「楽山園」(らくさんえん)

楽山園は、江戸時代初期に織田氏によって造られた小幡藩邸の庭園。池泉回遊式の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色があるそうです。

“平和の始まり”を意味する「元和(げんな)」元年(1615)に小幡の地を拝領した織田信雄。戦乱の世を駆け抜け、ようやく訪れた天下泰平の世に築いた楽山園には、世の平和と領民の安心を願う気持ちが込められていると言われています。

「楽山園」という名の由来は、論語にある
「子曰く、知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静、知者楽、仁者壽」

〝知者は策略を企てる者として、流動的、変化のある水を好み、行動的であり、一方、仁者は情け深く、不動の山を好み、静かに命を永らえる〟
と解されます。

この庭の「梅の茶屋」で、江戸時代と変わらぬ景色をゆっくりと楽しみながらも、世界平和を願って、ひとときを過ごしました。